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ブラックユーモアー [ちょっと哲学的]

おざわせいじ復活! いやー、小澤征爾氏には大変申し訳ないんだけれど、別の小沢さんの政治が復活しそうな感じで、ちょっとタイミングが良すぎる、というのは別の小沢さんの悪運をいっているのだけれど、まぁ、兎に角、よかったです。リンクの記事にもありますが、「小沢さんの元気な姿を見られてよかった。(小沢さんは)日本の宝です」って、ファンのコメントとか載せてますが、ここは「征爾さん」のほうがねぇ~ というのは、まぁ、ブロガーに限りませんが、検索というのをよくやると思います。例えば、小沢 日本の宝 で検索すると、やっぱりなサイトにぶちあたります。ただ、今回の「征爾さん」復活で、ロイターの記者? がわざわざ上述のようなファンのコメントを載せてるのは、ギャグのつもりだったのではないか。だとしたら凄いブラックジョークである。いやーそっからまた日本メディアの社員の劣化をなげくのもなんなので、例によって最近読んだ本でも紹介しておこう。それでは、2冊同時に、どうぞ~


エチカ抄  佐藤一郎 編訳      スピノザ 実践の哲学  ジル・ドゥルーズ


エチカに限らずスピノザの視点は、あくまで神は絶対視しても超越的地位を与えているわけではない。神はそこ、に存在しているのだ。そこにあるとは、所与としての自然、宇宙に対して人が覚知できるその全体を形成しているということである。ここで慎重に「人が認識している以上に」とか、「超えて」ということばを使用せずにおかなければならない。なぜならば、認識する人自体が、その宇宙、実体(神)の一部であるからである。しかしながら、〈人〉は有限である。時間的な意味〈死〉でも空間的な意味〈身体〉でも限られた世界しか認識できない。人(実体の一部)は実体の一部しか認識することはできないのである。そして、その認識の正しさは神から受け(受動し)ているのであるが、それは各人各々の神への働きかけ(能動)によって認識されるのである。まず、第一種の認識という段階。人の身体の延長としての運動と静止にあって、混然としている状態、様態を不十全に把握している段階。人が個物(または自己ではないもうひとつの身体、他人)と出会うとき、なにがしかの影響を受けることで人は変容する。それはよくも悪くもである。いいことが増えるばあいは、喜びが増すことであり、愛が満ちるということであり、力能が増すという能動的な様態である。悪いことが増えるばあいは、憎しみ、悲しみであり、力能は減じられ受身的な様態となる。この悪しきものを減じること、そのために、人は「共通概念」をもち互いの力能を集めたよりよい人工的な自然(社会)状態、様態を作らなければならない。
このエチカ抄は、抄としているので全文を訳しているわけではなく、第1部、2部、5部は全文、第3部は「命題」13の備考まで、第4部は「命題」8の論証までが訳されている。方やドゥルーズの方は、第3、4、5部にあたる部分を中心にして解説しているので、双方は補完しあっているような具合である。これはたまたまだったのだが、双方をチョイスしてきて大正解なのであった。というのも、エチカ抄を読むのに若干難渋したからである。エチカ第2部の命題13は「人間の精神をつくり成している観念の対象は体である」としていて、これはスピノザが批判したデカルトにおいてもいわれる心身並行論の一系である。そして、両著述の訳者は、心身平行論ではなく「並」を使っているが、「並」は学際的な使われ方か、平らの方は論文からはあまり見かけないけれども、アマゾンとかのレビューでよく見かける。まぁ、どちらが正確なのかは今一わからないけれども、訳出する人によっての違いなのか。因みに、平行は「どこまで行っても交わらないこと。」、並行は「並んで行くこと。並んで行うこと。」なので、ユークリッド幾何学を低層に思推されたことを思うと「平行」もいつか交わるようなので「並」の方が意味はあっているように思う。まぁ、それはともかく抄には閉口したわけである[ふらふら]
さて、バンヴェニストが、「能動・受動」に代えて動詞のプロセスとその動詞の主辞とのあいだの位相関係をもっとも的確に表す文法概念として「外態・内態」を提唱した。主辞の表す動作主体がそのプロセスの外部に立ち、プロセスが「主辞に発して主辞の外でおこなわれる」かたちでとらえられる場合を外態といい、反対に主辞の表す動作主体がそのプロセス自身の内部に立ち、プロセスが「主辞(sujet)がプロセスの(主体sujetであるというよりむしろ)主座(siege)である」かたちでその展開のプロセスがとらえられる場合を内態という。 - 鈴木雅大 付論「の変容、の観念----スピノザの内態の論理」(平凡社ライブラリー『スピノザ 実践の哲学』所収 297頁) スピノザは「エチカ」をラテン語で書いている。ここでもう一つ重要なのが、ロマンス諸語で多様される再帰動詞である。訳者の鈴木氏は、「スピノザにおいて、動詞〈ある〉は再帰動詞となるのである」〈 同 「訳者あとがき」(同 291頁)〉 として、エチカが、神を一義的に原因として人が観念を持つという捉えなおしの連鎖というプロセス、を主辞として書かれたことを強調する。構成関係の合一・形成〔の認識〕を常に既に内在化する連続として、そのプロセス自体を主語化すること(動詞の人称化=再帰動詞)が内態である。内在化の論理の連鎖、切断が内態の論理ということとなる。まさにそうであるし、訳者の感動は自己言及的にわかるのだが、ただ単にサイコ的には、ラテン語が理性の言語であるからそれによって書かれたのではないか、とも思うのである。それならば「ヘブライ語文法綱要」という未完の書も遺しているスピノザがなぜヘブライ語で「エチカ」を書かなかったのか、と言われるであろう。それはユダヤ的な戒律からの自由と、幾何学を書くためのギリシャ語には疎かったから、いや、ギリシャは多神教であるため(スピノザの神は一つの実体なので)、そして、学術書は概ねラテン語で書かれたためであったから、だと思うのだ。推測の閾をまったく出ないのではあるが、訳者の思い以上にスピノザを取り巻いていた当時の社会情勢からして、ユダヤ教のラビのようには書きたくないし、カソリックに寛容があるとすれば、そこで流通する言葉で敢えて書いた、か、それが自然(普通)に神に通じる言葉であったか、でしかないように思うのである。
まぁ、極端に端折って、第3種の認識という、至福の静止状態を理想として、エチカ(様態の倫理学)は、神学的隷従支配(簡単に言って教会という抑圧装置)がその当時の人々に強いる道徳からの解放の書であったはずなのである。しかし、その意志はスピノザの死後数年忘れ去られていて、皮肉なことに神の死を宣言したニーチェによって再発見されるのである。しかしながら、思えばもともとはスピノザもニーチェも神学の徒であったのだ。抑圧という神の属性ではないものが介在する教会という支配体制の中で、その違和感に気づき、教会なしで、あるいは神そのものなしでも〈理性〉は高められる。その実践の系譜である。
さて、神もいなくなった、共産党(中国にはあるか)もなくなったはずなのであるが、マルクスの亡霊とエチカが合体したのがマルチチュードである。そもそもなんで「エチカ」を読もうと思ったのかは、「マルチチュード」の監修者解説においてスピノザの政治的概念(共通概念)についての件がきっかけなのである。なるほどスピノジストであるネグリならば、結論的にはそうなるか〈2010/06のプログ参照〉というふうに合点がいったわけである。まぁ、ドゥルーズ亡き後、スピノザからニーチェの系譜を継ぐものは、ネグリぐらいしかいないわけなのだろう。まぁ、兎に角、「マルチ」の続編に期待したいところである。

そして、民主党の党首選もクライマックスに近くなってきている。これは公職選挙ではないから思う存分にエールを送れるので、再び例のシュプレヒコーール!

信じることさ 必ず最後に愛は勝つ。 YES! WE! KAN!



タグ:スピノザ
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洗剤が耐えられない汚れ [法の下の平等]

えー、なんか知らぬ間に社労士試験は終わってしまって、ぼーーーっと、1週間が過ぎてしまった。次なる行政書士試験まで70日ほどしかないのであって、ぽーーっとしている暇はないはずなのであるが、兎に角、先週はぼーっと過ぎてしまった。思い立ったように、またぞろブログも書き出しているのであるが、社会派ブログとして例の行政裁判を模索していながら、結局、時間切れで断念することになってしまった。「時間とカネ」が無いということは、庶民にとってほんとうに足枷である。行政の不当を糾弾していかなければならないのではあるが、そうした限界が常につきまとうわけである。ああ、だからもう少しメディアはましなことを書いて欲しいのではあるが、劣化といってもいいほどに、弱小ブログと大差ないことを書いたりするメディアもあったりするわけである。民主党の代表選に、小沢一郎前幹事長が出馬の意向を表明したことに対する各紙の比較とでもいっていいこの記事であるが、「政治とカネ」の問題に決着がついていないことに対して、朝日は「あいた口がふさがらない」らしいのだ。まぁ、大方、庶民の真意を代弁しているには違いないのだろうが、一応メディアなのだから、呆れてるだけではどうしようもなかろう。それを思うと、この記事のように読売の客観的な視点はメディアとしての最低限のわきまえ、のように思える。メディアにおいての感情的なものいいは、扇動に繋がるある種の罪を秘めていないか、と思うのだが。しかもポピュリズム的な迎合性を思うと、決してサイコはネウヨではないのだけれど、左よりの朝日が、大東亜戦争時に犯した戦争賞賛報道の体質のまま左的に捻じ曲がっただけで実はその報道体質を伝統として保守しているのではないかとさへ勘ぐってしまうのである。まぁ、だからといって産経がいいと言うつもりもないのだけれど、最近は穏健的な読売から題材をパクってくることにしているのだ。
まぁ、「政治とカネ」の問題に決着がついていないのではあるが、あるリミットとして一般庶民のサイコの「時間とカネ」の問題は決着してしまった。実際、小沢さんあたりから〈カネ〉の支援があれば、間違いなく行政訴訟起こしていただろう(*´д`)=з 時間はもったいないので、弁護士先生にお願いするとしても、その訴訟の経過はじっくり研究するに値したであろうし、まぁ、滅多に無いチャンスではあったけれども、断念(*´д`)=з まぁ、過ぎてしまったことをいちいち思ってみても始まらないわけで、兎に角、次なるは、4回目のリベンジとなる行政書士試験である。まぁ、そういうことで、再度、例のエールで気合を入れることにしよう、なのであるが、うーん、ちょっと虚しいといえば虚しいのであるが、東京新聞にこんな記事が載っていたのでちょっとコメントしてからにしよう。代表選は党内部の問題といえば内部問題ではあるが、与党の党首が基本的に総理になるわけで、そうとも言ってられないわけなのだけれども、菅さん支持が7割、小沢さん1割5分に比して圧勝としているのだけれど、小沢さん支持がそれでも15%いるというのも事実。菅内閣支持率が20日前から比べて9ポイントほど上昇して、不支持も9ポイント弱減っているので、不支持から支持にそのまま乗り換えてる人が大半なのか、ということである。まぁ、それでも防災の日でもある今日から党首選が始まったのではあるが、国民はそれなりに菅総理に期待しているわけなのだけれど、それでもやはり代表選は党内で決せられるわけで、民主党員以外の庶民は蚊帳の外なのである。党員以外も国民なのだ、ということを小沢さんはわかっているのだろうか。なんだったっけ、「国民の生活が第一」だよね。まぁ、この辺にしておかないと朝日化しそうなので、例のエールを。

信じることさ 必ず最後に愛は勝つ。 YES! WE! KAN!



潜在の耐えられる重さ [ちょっと哲学的]

とあるカフェで、上品に香りたつコーヒーを味わいながらブログを書きたいところであるが、まぁ、試験も近いことだし、殺風景な自宅で、株主優待で届いたIT〇〇の缶コーヒー(タリーズコーヒー)を飲みつつ、取り敢えず前回の続きのような感じで。
お役所仕事はお役所なのであるが、ご長寿の健在を確認することは懈怠しておきながら、政治家のスキャンダル探しには躍起のようである。まさにこの記事の最後に「組織防衛に必死な役人ども。他人のスキャンダル探しをするヒマがあるなら仕事しろ!」とあるのだが、同感である。なのであるが、ここで露顕してないのは、その醜聞が知らされるのは雑誌メディアによる、ということである。いや、そんなのわかってる、と言われるが、「メディア」とは国家権力と別種の暴力を持つことによりぎりぎりまで国家と対峙するはずのものが、国家の暴力に利用されていると言うことである。いや、そんなのわかってる、と言われるかもしれないが、こうなると「メディア」は別種の権力を選択して行使しているだけに見える。いわゆる恣意によって攻撃するものは、国家権力であるときもあり個人であるときもあるということである。さて、政治家というのは公人である。個人ではあるが、遥かにそれを超えて国家権力に近い存在である。このカオスな存在を攻撃対象とするということはどういうことを意味するのであろうか。わかりやすくするために、組織だけに限らないのだけれども、国家という幻想共同体を実効的に運営するためには、行政(官僚)という組織体が必要である。その行政の肥大化をけん制するために立法(国会)と司法(警察)という組織体がある。国家権力もこうして三権に分立することで互いをチェックする機能をも持たされているのであるが、どの組織、民間の会社組織もしかり、組織体の意思決定のために長が存在する。組織というピラミッドの頂点に長が存在するのであるが、ピラミッドの階層を順番に降りていくごとにも、派閥的に小さなピラミッド集団が存在し、やはりそこにも長がいて、意思決定を行っている。官僚の場合は上意下達のごとく、大なるピラミッドを細分化すれば同様なピラミッド組織でしかないのであるが、国会(立法)においては現在の捩れが象徴するごとく、様々な意思決定集団を「数」において序列化しているだけであるので、少数派においても発言することにおいては平等的であり、多数派や主流派(取り敢えず今は民主党ということで)の戦略との合致があれば「数」の論理を超える可能性はある。まぁ、最終的には「数」の論理でしかないのだけれども、様々な考え方の集団によるカオス体とも呼べるべき組織体なので、官僚組織体的な細分化は不可能である。ただ、そうした政策集団としての政党においても官僚的とまではいはなくてもピラミッド構造自体は同様である。さて、そうした三権分立において、官僚(行政)と政治家(立法)がけん制を超えて対立することも、国家という暴力構造内でしばしば起こりうるだろうし、一方がかなりドラスティックな改変を強制しようとするときには、抵抗はもちろんのこと、封じ込める以上の反撃もありうるだろう。まぁ、大きな国家組織内での内輪もめ的にしか下部構造の市民には見えないのだけれども、その上部構造の行動をチェックするという大義名分でもって「メディア」はそこに不穏な動きがあれば〈真実〉を露顕させるのである。さて、それは〈真実〉ではあるのであるが、それが国家の暴力、事例では官僚の暴力に利用される場合には、〈真実〉は正しさを超えてしまっているのである。正しくない、ということではなく、この「超えてしまう」ことで正義の絶対化によって他の正しさを無効化してしまうということである。潜在する僅かな正しさは、場合によっては不正と捉えられてしまうことにもなる、ということである。「メディア」は象徴的に事件を取り上げることが仕事である。知らせうるべき事件にも序列があり、その序列化の末に僅かな正しさは隠蔽されていくのである。さて、政治家というのは公人ではあるが、商売的には個人名を看板にしているので、官僚という組織内での一公務員という商売をしているわけではない。だから、例えば、元首相の息子である県会議員が逮捕されるなどということになると、もう二度と政治家として商売できないということである。この場合は、列記とした犯罪であるからして、同情の余地はないのであるが、犯罪を犯したわけでもなく、公の利益にもそれほどなりそうもないことでもって、公人としてではない政治家の個人的なスキャンダルを垂れ流す「メディア」がある、のである。そこには国家権力の不正を暴露するという大儀はあるのではあるが、一方の国家権力に加担する正義などは〈真実〉としても、やはり最早正しさを超えてしまっている。まぁ、捉えるほうの市民も、面白半分で読んでしまうのではあろうし、大「メディア」が発行する週刊誌というのも、商品であってそれ自体は情報でもなんでもないわけであるから、単に買わずに立ち読みするくらいが上等だとは思うのだが、まぁ、俎上に挙げられた政治家はたまったものではないね。





不存在の耐えられる重さ [法の下の平等]

先回の「Nonentity Youth」というのは、「つまらない若者」のことであるが、今回は思い話題である。
ぼちぼち顕在化するニュースかと思っていたが、やっぱりでてきた。足立区で最高齢のはずの加藤さん(生きてたら111歳)が実はもうとっくに亡くなって30年ほど経っていた、という話しである。今回は息子が本人になりすましたわけではなく、即身成仏として放置されていたのではあるが、そのことも重大な問題ではあるが、「生きているものとして」家族が年金をネコババしていた事実も更に重大問題である。とあるテレビ番組で言っていたことなのだが、本人になりすまして年金を不正受給するケースは、長寿国日本において出るべくして出てくるだろうということであった。しかしまぁ、そんな仏さんとひとつ屋根の下で生活し続けていたというのは異常極まりない。どんな宗教上の理念に基づいているのかは知れないけれども、現代人としては、死人とともに寝食するのは葬式くらいのことであろうと思われるのだが、それが常態化してしまうという感覚の麻痺は、ただただ気味が悪い、気色悪い。まぁ、こういうことこそ、不遜であり不尊なのであろう。そして続報としてこういったなりすまし、名ばかり高齢者は潜在しているということである。まぁ、それにしても足立区というお役所はお役所である。もっともらしい言い訳をタブロイドに書かれてしまっているのだが(まぁ、そうコメントすることを見越して書いているのであろうが)、住民票上のことでならば、今回は死んでた場合なのだが、じゃ、ママが出生届け出さないママだったらどうするのか。東京都の区は特別区という行政区分で、市町村と同じレベルでの行政を取り仕切る。区長は、まぁ、市長並みの権限をもっているわけなのだ。まぁ、ここで行政の懈怠を云々しても始まらないのだけど、足立区民で、要は税金で高齢者事業給付金なんか賄われているはずなので、いわゆる住民訴訟なりで、担当職員の業務差し止め(要は異動させろ願)と不正支出(ほんとは不正受給なんだろうけど)による損害賠償(国家賠償に匹敵するものね)を提起してもらいたいものだ。けど、思い出してしまった。そういえば、サイコは〇〇県警相手に違反の不存在を提起する訴訟をするはずだったんだ。うーん、まぁ、だから訴訟はハードルが高いとして、足立区の市民団体あたりは監査請求くらいはしてもらいたいものだ。それと、30年も発覚しなかったことから押して、50年くらい前であれば、ご近所の〇〇さんどうなった、なんてことからすぐその健在は顕在することと思われるのであるが、地域との密接性が変にプライバシー保護という形で隔離されてしまっているから、今回のようにずるずる見つからない事態になってしまうのだろう。それこそ戦時下の隣組みたいな共同監視体制を引けと言うわけではないが、ご老人に対してだけでなく、出生届出してたとしても幼児の虐待やそれこそ放置、なんていうこともありうるわけであるから、地域住民の安念のためにも机上の事務を超えた現場協力体制みたいなのも各自治体には必要になってきているのではないだろうか。それと、最後に、報知以下各メディアよ、率直に今回の件についての都知事の見解を取って来い!

まぁ、次は存在を賭けたのであるが、「労働の組織化」にあって、資本をいかに活用するかの戦略のなかで消えていく存在である。まず、三洋電機は能天気に、「お米からパン」を作るホームベーカリーGOPANを開発した。しかし、こんな画期的なものが、後半年で「SANYO」ブランドとしては販売されなくなるのである。一昨日、パナソニックは、子会社である三洋電機を完全子会社化することを発表した。これによって、来年度からは全てパナソニックというブランドになってしまうわけである。まぁ、こうなるとこの「ライスブレッドクッカー」を「SANYO」ブランドとしてのプレミア付きで買うのには、10/8に家電量販店に並ぶか、ネットショップで買い占めて、オークションで売り飛ばす、ということになろうか。まぁ、そんな余談はさておき、パナソニックは9000億円かけてTOBするということなのだけれど、その調達コストの半分を株式の増資で賄うため、先読み筋によってパナソニックの29日の株価は暴落であった。反転、30日は+65の1142円で引けている。今回、順張りで売っていたサイコはまたもや大負けである(*´д`)=з まぁ、長い目でみれば、「SANYO」の宣伝広告費は当然浮くわけであるし、と言っても05年の数値なのだが宣伝広告費は約150億円なので、まぁ、親会社にとっては微々たるものか。でも、「SANYO」の去年度の経常損益が300億円くらいだとすると、半分ほどに損を圧縮できるような計算であるから、それだけでも子会社としては助かるような感じである。まぁ、それと三洋の市場シェアをゼロ化して、そこに統一パナソニックというブランド戦略を仕掛けるわけでもあるから、市場占有率アップ=経常利益増ではないにしても多少の寄与は期待できるということか。まぁ、後は、資産の切り売りで9000億円をチャラにしようということだろう。それでも軒並み、格付け会社による社債のランクは下げられていたりするのに、日経平均も下げていたのに昨日は大幅反発である。わからん。まぁ、兎に角、「SANYO」ブランドは家電売り場から消えてなくなるわけである。まぁ、三洋電機といえばエネループで息を吹き返したかにみえたのであるが、パナソニック傘下に入って、結局美味しいところを持ってかれたことになる結果のように思う。まぁ、上述の「ゴパン」なんてのはほんとに最後っぺ的な粋を感じてしまうので、ついつい最初に紹介してしまったのであるが、企業の生き残りというのも実際厳しいということである。うーん、いやおぼろげに不安の雲を思い描いてしまっているのであるが、景気のてこ入れをなんとかして欲しいものである。しかし、国会は空転するのか? 何か新しい充電方法を編み出して欲しいね。

そして、この夏消え行くものがもうひとつある。菅内閣か、社民党か、はたまた自民党か、という高度な次元ではない。あの日清ラ王である。サイコも発売当初は、よく食したものである。生タイプの麺というところがこだわりとしてあったのだが、まぁ、普通のカップ麺の2倍くらいのお値段なので、スーパーで買い物するようになって、安売りしているカップ麺を買い溜めするようになってから、食指が遠のいた感である。それこそここ5、6年はカップ麺自体を食べなくなってもきているのであるが。そのラ王追湯(ツイートウ)式典が8月半ばまで行われるらしい。まぁ、タブロイドの最後の記述は粋である。「ラオウ(ラ王)が死して、悟飯(ごはん)が生まれる」なのだが、ごはん、とはカップヌードルごはんである。まぁ、レンジでチン商品であるが、時代とともに手軽さプラス味も進化するということなのか。

そして、双璧のタブロイドの雄のもう一方が論じるところ、今衆院を解散して選挙してもやはり自民党は勝てない、ということらしい。誤判(ごはん)か、と思ったのだがかなり説得力はある。先の参院選挙で自民党は大勝したわけではないということである。まぁ、民主党の退廃であっただけなのか。衆院選になるといわゆる小選挙区制なので、リテールで自民はせり勝てないということなのだろう。うーん、消え行くのは自民の運命なのか。まぁ、菅内閣の方が先に消え行く可能性は高いような感である。それこそ読売新聞の誘惑に乗せられて、衆院解散なんてのはやらないとは思う。来年は統一地方選挙も控えているわけであるし。ただ、小選挙区とは若干ズレはあるとしても、統一地方選挙の自治体ごとの選挙地区において、読売の仮説が正しければ、地方も民主党の躍進という結果になるのであろうか。まぁ、市町村長や自治体の議会議員などはそうなり得るとしても、知事選においてはどうなのだろうか。まぁ、現職強しということであれば、そうそう民主党が切り崩せるというものでもないのではなかろうか。知事選に限れば、先の参院選の結果は非常に参考となるところかと思われる。まぁ、いずれにしても今から米(兵糧)を蓄えておくことが肝心なのか。




Nonentity Youth [法の下の平等]

いやー、暑い。やはりまだまだ灼熱ラブである。どうやら中部圏あたりまでは梅雨が開けた様であるが、ジメジメしたニュースは後を絶たない、けれどもすぐに忘れられていく。また、例によってA HOU A KANで取り上げたカネと暴力の系譜学からの派生論の復讐で、まぁ、それと今更ながら非実在青少年について騙るのであるが、6/25、福岡県が全国初の表現規制として、暴力団を扱った雑誌や漫画を有害図書に指定した。例えば、実話時代 2010年 07月号 [雑誌]なんてのもそのひとつである。リンクの楽天ブックスでは、そうした背景でヒット化したのか売り切れになっているのだが(な訳ない)、要は有害図書を読んだことによりヤクザに憧れて道を極めるな! ということらしい。うーん、ま、全部で5冊ほど福岡県警が指定図書としているのであるが、リンクを見てもらうとその表紙の画像を見ることができるのだが、ばーん、と〈「福岡県警」の犯罪〉なんて記事がありそうだから、これはもう手前の都合の悪いことを書いてあるものは徹底して弾圧しようというような感じである。さて、復讐なのだが、こうした雑誌メディアも「情報の組織化」による新たな暴力、国家が独占しているはずの暴力とは別種の暴力を持っているのであるが、最終的には恣意的に国家の暴力によって回収されることも、ままあるということである。国家から分離して「情報」を資本によって組織化することで、「メディア」はある権力を有するのであるが、「労働の組織化」によって資本は膨張運動するに比して、資本により「情報の組織化」がなされることで新たな暴力、国家が独占しているはずの暴力とは別種の暴力を持つに至る、ということなのだ。まぁ、例によって暴力を権力と読み替えてもらうとして、雑誌メディアにおいても良心的な社会の福祉に寄与するような、例えば、釣り専門雑誌であるとかであれば警察権力も大目に見るのだが、反社会的な暴力団を美化するような内容のものは、たまたま条例が発効されていることをこれ幸いに規制の大鉈を振るってくる、というわけだ。これは、県警は地方組織なのだけどここは国家権力と置き換えてもらって、国家権力がいわゆるチェック権力として対峙する雑誌メディアの有する権力を、法の正義という大儀でもって反体制的と断定して規制の対象とする例といっていいだろう。ここでも法適用の恣意性という問題がある。前回は、個人が法を無視するかどうかということで、法の無効化ということを書いたのであるが、国家権力が恣意的に「犯罪」として法を適用することで罪を成立させる主体である、がために「メディア」権力に対するような無視は、個人が取りうるスタンスとならないということである。この直接的な有形力のあり方が、どこまで法のみを根拠として覊束的に行われうるか、なのであるが、法自体に曖昧性(カオス)が在り、基準や標準をどう設定しているのかが判明でない場合に、さて権力の裁量は行為として、本当に〈正しい〉のかということである。法の世界は推定無罪であると言われるのだけれども、警察という行政は法律の世界ではない。単に違反や犯罪に対して法に基づいているものとして有形力(権/暴力)を行使する主体である。行為する末端の警察職員というのはロボットではなく、過ちを犯しやすい人間である。そこの倫理としての許されるべきものに、倫理なく規制する社会的正義の根拠を明確にしない限り、法が道徳を規制するという本末転倒は、議論上では水掛け論でしかないし、権力が行使されている場面では、権力の恣意性は免れることはできないはずである。結論からして、まずこの例の場合には、過去の言論裁判、最高裁判例を規範として、条例の限界である憲法を最高位として他の関連諸法律の範囲内での規制可能性の妥当性、などから逸脱していないか、条例の濫用に当たっているのではないか等を十分に満たすとして福岡県暴力団排除条例による指定ということを明確化すべきであっただろう。単に反社会的勢力の排除において、そちらの暴力の被害を市民から護るということであるからして、市民の反対、限定して市民運動団体からの反対というものもないだろうとして、福岡県警の警察官の未だ多々出てくる不祥事から目を逸らさせるための苦渋の裁量的な有害図書指定、にしか見えないのだけれど。まぁ、非実在青少年は実在しようがないのだけれど、現実的に暴力団は実在するから対象にしやすいことも、恣意的な指定に繋がっているのだろう。で、まぁ、県の条例であるからして、福岡県内では指定がかかって本屋とかで販売できなくなるのかよくわからないのだが、福岡県内で売られてなくても、上述したように、まぁ、たまたま楽天ブックスは売り切れだけどネットショップで購入することは可能なのだから、ある意味、現代的な規制でもないのではないか、という疑念も残るところである。要するに、確かに規制しているのは事実としても、合法的に有害指定図書はいくらでも買えてしまうというのが現実のような気がするのであるが。もうちょっと深く考えると、暴力団排除という条例も本当の意味で機能するのかどうかが疑わしいともいえる。いや、このおかげで暴力団は福岡県内から一掃されるであろう。が、例えば、大紋を単に政治団体の看板にまさに架け替えただけとしたときには、有名無実ということである。そして、こうした事態があるから権力は反社会的勢力に対して、合法として犯罪を仕立てることもあり、それは反社会的勢力の域を超えて市民側にまで及ぶ、いわば捏造やでっち上げなどということは大いに在りえる話だということである。非実在の推定無罪は、実在の有名無実を再生産するがため、閾値を越え出たところで冤罪も再生産される可能性に満ちているのである。ああ、怖い、怖い。へたな会談話よりも背筋が寒くなる(いやーいつも寒くさせるギャグ飛ばしてるからそれほどでもないか[ふらふら])実話の時代だ。




タグ:萱野稔人

心ざんばら [ちょっと哲学的]

うーん、2010サッカーW杯南ア大会決勝も盛り上がっているのであるが、第22回参議院議員議員通常選挙も終わって、民主党は44議席、野党は77議席と大敗であった。これで非改選と合わせて110議席と過半数に11議席足りないこととなる。にわかにツィられてるように、「みんなの党」と連立すれば丁度121議席で過半数となるのだが、消費税論議を又ぶり返すと、国民新党の3議席が離脱するので、危ういものである。とすれば、数年前の自公連立みたく公民連合ということになろうか。国民新党が離脱しても公民だけで125議席であるから安定政権となる。まぁ、参議院のためだけでそんな連立も成立するとは思えないのだけれど、まぁ、悲惨であったのはタレント候補たちであろうか。それでも比例区ではトップの有田芳生氏と2位の谷亮子氏は難なく当選してはいるが他の候補は軒並み名簿順位が下の方なのであえなく落選である。自民では三原じゅん子とかが当選してるけど、何かなぁー。まぁ、選挙前に騒いだほどにはタレント議員は輩出されなかったといえるようである。そういえば、例の前田雄吉さんなんかは、タレント候補たちよりも順位低いものだから、当然落選してしまったわけだね。まぁ、この人、元々は衆議院議員で民主党から出てたのだけれども、08年10月にマルチ業者から献金貰ってて、国会で擁護答弁をした疑いで、あっさり自身から離党していた人なのだけれど、今回の参院選で復党して出馬まではいいけど、どうせ名簿順位は低いよなぁー、と思っていたら案の定だったのだけど、復党できただけでも御の字なのである。まぁ、また頑張ってください。まぁ、最近のサイコの予想で当たったのはどこぞのタコではないけど、2010サッカーW杯南ア大会のスペイン優勝くらいのものか。熱い夏は終わった。更に暑い夏がやってくる。


「情況への発言」全集成(1(1962~1975))   吉本隆明

雑誌『試行』の巻頭を飾った名物的連載すべてを発表順に収録している。情況を捉えずして本質には迫れない、著者の覚悟がこめられた時代との格闘。情況は情況を捉える確かな目によって情況となる。混迷する現在に立ち向かう著者の真骨頂を伝える時代への証言の書。まず第1巻を読んで、論敵も絡めて書こうかとも思ったのだが、まぁ、例によって大雑把に書いてみる。吉本自身が本屋と直談判して雑誌『試行』を置いてもらうというような件があるのだが、えー、っとちょっとびっくりしたのだが、まさに思想の産地直送である。まぁどうだろう、60年安保後の当時というのは、八百屋でも直に野菜を売りにくる農家とかもいただろうから、今は珍しいというかそれをセールスポイントとしているのだけれど、当時は〈普通〉だったのかもしれない。それにつけてもそんな弱小雑誌相手に大手商業論壇が論戦を張ってくるというのも、単に弱いものいじめ的にも思えるのだが、それだけ吉本が戦後最大の日本の思想家であったということの証左であろうか。次々と論敵を駆逐して思想界のヘゲモニーを確立していく様子は、絓秀実吉本隆明の時代に詳しいので、それを紹介したときのこのブログを参照してもらうとして、まぁ、当時の大学教授というのが権威主義的であっただろう様はうかがい知れる。吉本は今でこそどこぞの大学の特任教授をやってはいるが、当時はそうした権威など〈自立〉にとって何の役にも立たないことを分かりすぎていたから、在野の思想家に留まっていたのだろうが、それこそが庶民の、下からの即時的な情況への応答となっていたのであろう。また、どことのしがらみなく自由に書けたということも、まさに〈自立〉の強みであったのだろう。ただ自由気ままというわけではない。書き言葉は、辛辣を超えた罵詈雑言な表現のときもあるのであるが、真に的を得ていて、それこそ普通なら大人げぶって無視を決め付けるところであろうが、売られた喧嘩を買って出て、みごとに勝ってしまうのだから、カッコ良すぎる。うーん、吉本の正しさというのは本当にカッコいいのである。まぁ、それにつけても当時は熱い時代であったのだ。

まぁ、どうだろう、今の論壇というのは、それこそネットというものがあって情報が溢れているのであるが真に正鵠な論議というものがなされていないような感である。まぁ、メディア、とくにテレビに出てくるような人というのは、単にタレントであって、総論ではなくて各論のそれも瑣末な部分で当たり障りなく論じたりしているように見えるので、それが全体的なものを補完するまでに至ってないように思えるのだ。そうした大メディアでないところで、的を得たものもあるのだけれど、そちらは歴史的であって現在進行的には過ぎ去ってしまっているようにも感じるし、中々情況との合致ということは難しい時代なのかもしれない。いわゆる属領化、脱属領化そして再属領化のサイクルが早すぎるので、1日過ぎてしまうともう忘れ去られてしまうということなのであろうか。

まぁ、取り敢えず日本の選挙制度も、一応チェック機能を果たしているといえるわけで、まだましな代表制であるとして、後は個々人の直接的な政治行動ということなのであろうが、まぁ、サイコの場合、取り敢えず試験に受かることだね[ふらふら] まだまだ時代は熱い。



A HOU A KAN [法の下の平等]

さて、選挙も間近である。といってもサイコはもうすでに期日前投票をしてきたので、済んでしまっているのであるが。まぁ、前に千葉県知事選に関して、選挙期間中は特定の党や特定の候補者についてブログでとやかく書くことは、ひょっとして公職選挙法に抵触する恐れが十分あるのでは、ということを書いた手前、今回もほとんど騙らないのではあるが、マスゴミというのはおかまいなしに特定の党をこき下ろすのに躍起である。例のゴネ得枝野幹事長が失言したと産経は書いているのだが、いやー立派に他党叩きしているように思えるのだが。まぁ、一部連合系列の公務員は犠牲になってしまっているのだが、朝日が書くような変な書き方をするな! というふうに思えるのだ。毎日の凋落は目に余るとしても、産経は右派のはずなのだから、朝日の劣化コピーになってはならないだろう。というか、擁護すべきであった自民党について書くことが無い、のかもしれない。それはそれなりに由々しき問題ではあるのだが、沈まぬはずの太陽も沈む時代であるからして、新しい時代に則した書き方になってきているのであろうか。そうした、「情報の組織化」の凋落を考えるために、前提となる本を簡単に紹介しておこう。


カネと暴力の系譜学  萱野稔人

ドイツ語でGewaltが暴力と権力とを意味するのに近い調子と思うと分かりやすいか、ここでの暴力とは、日本語的には権力の方がやはりしっくりくるものなのである。資本主義社会において、というかここで書かれている国家による暴力の独占、その正当化なるものは社会主義社会、共産主義社会においても同列であると思われるが、要は国家において、法の下の平等の実現という前提からその均衡を乱す者を法に基づいた強制力により処罰、排除することで暴(権)力の独占をなしうる、ということだ。後、「富への権利」、国家成立の基礎である「労働の組織化」というキーワードも出てくるが、簡単にだけ言うと、いづれも封建制において混在していた労働が、資本の運動という新しいシステムの出現によって政治的なものから経済的なものだけに分離独立を果たし、国家にたよらずとも資本によって「組織化」が可能となったのであり、封建制という政治システムの疲弊から領主や貴族が単にブルジョワに看板を書き換えただけで、ブルジョワ革命なるものによって資本主義が発生したわけではない、ということだ。少しつけ加えると、このブルジョワは大東亜戦争後の数年、否定的な意味で使われていた「市民」と同義かと思う。文字通りブルジョワ革命=市民革命だからだ。市民革命によって資本主義が発生したわけではない。
さて、大雑把に見たとおり、国家は暴力を独占したことにより、それによる脅しで国民から税という名目でカネを巻き上げている。資本の方は自前で「労働の組織化」を達成したことで、さらなる運動によって自らを増殖していく。国家が暴力の独占に特化したことによって、資本は国家に対峙したわけではなくそれを後押し、強化する手助けをしたということである。これを思うと、第二次大戦あるいは列強による植民地政策は、国家が暴力の独占を極端に拡張した形で国家どうしのエゴのぶつけ合いであったとも言えるし、大恐慌をエポケーして昨今の世界金融不安は、国家から自由になった資本が「労働の組織化」をグローバルな形で展開して加速度の付きすぎで、というか資本の増殖そのものに企業が付いていけなくて躓いた、ともいえそうだ。

さて、こうしてブログに起こしていると、現代ではもう一つの新たな暴力が増大しているはずなのである。そう、紛れも無くこうして発信するという行為そのものである。なにも罵詈雑言、暴言だけが暴力なのではない。暴力と言って分かりにくければ権力でもいい、以前に環境知能でも少し触れているのであるが、権力機構としてのグーグルという東浩紀の警告。やはり資本主義社会だけに限らず、社会主義国家、共産主義国家においても、社会体制によってその規制の緩急が異なりはするが、情報を統制する強制力を有する国家から「メディア」は形式上分離していて、資本が「労働の組織化」を成し得たごとく、資本により「情報の組織化」をも遂げることとなる。この資本を握っているのが国家であれば、それが体制の違いとなるということだ。だから、体制による違いは然程重要ではなく、国家から分離して「情報」を資本によって組織化することで、「メディア」はある権力を有することとなる、ということである。これは「労働の組織化」によって資本は膨張運動するに比して、資本により「情報の組織化」がなされることで新たな暴力、国家が独占しているはずの暴力とは別種の暴力を持つに至る、ということだ。これは大メディアに限らず所謂ネット上のこうしたブログについても同じである。検索エンジンによってその序列的表示選択順位が決定されているところに、前述の東は新たな権(暴)力を見ているということで、リアル社会とバーチャル社会がボーダーレスになってくるとバーチャルな社会による新たな暴力が侵食するリアル社会への影響をどう「処理」したらいいのか、という倫理の問題となるということである。
法の下の平等ということをよく言うのであるが、それは適用されてなんぼのものである。個人の選択の多様性を広げることは、それはそれなりにいいことであるはずで、今まで法が無い(欠缺)がために人たる尊厳を疎外されてきた者たちも確かに存在するわけで、何を恐れて保守陣営は、胡散臭く日本の伝統、文化、家族の崩壊などと、いまごろになって喚くのかが解せない。そんなもの、法制定前から、ずーーーーーーーっとプロパガンダし続けているのであれば分かるし、美しき日本のあり方というものも見えてくるはずなのであるが、この選挙前のから騒ぎというのが、どこぞの国で反グローバリゼーションの運動をしているお祭り騒ぎと同列に見えてくるのはサイコだけだろうか。まぁ、わしだけだとしても、最近ではマスゴミの「情報の組織化」による新たな暴力、国家が独占しているはずの暴力とは別種の暴力を持つということも、然程脅威ではないような感じである。というのも、資本主義社会において、昨今のような経済不安が存在している状況下では、「情報の組織化」はされても資本の運動が低調することと連動しているがため、その情報という暴力自体に差し迫った脅威を感じられないのである。まぁ、そういうこともあるし、読む人が読めば、その信憑性などはすぐに分かるわけで、情報の捉え方次第でマスゴミの有する別種の権力なども、すぐさま無力化してしまうということである。ただ、やっかいなのは、それこそ大衆に拡散されることで、各々に捉え方も一様ではないにも係わらず、付和雷同的な大衆という幻想を実体化してしまう、マスゴミの常套手段である。これを詐欺として訴えたものは稀であろうが、実体の無い、それこそバーチャルな世論という呪いをかけ続けられるがため、常に大衆は幻惑しているのである。まぁ、前の首相がブレてるとよく言われたのであるが、大衆はブレさせられ続けているわけで、焦点など定まるはずもなくて笑点とされているのだ。
ひとつ、社労士の勉強に係わらないとも思うのだが、法律を勉強している人であれば、人権問題というのに関連して、国籍条項が日本の諸法律において撤廃されているのは周知のことかと思われるのだが、例えば、国民年金法でも、被保険者の要件(任意加入被保険者を除く。)というのは、日本国内に住所を有する、20歳以上60歳未満の者、であって、どこにも国籍は要件とされていないのである。さて、これはいつからか。国籍要件の撤廃は、難民条約等が効力を生ずる日(昭和57年1月1日)に実施されているので、もう彼是四半世紀も経っているのである。なので今更、地方参政権を外人に認めることが脅威などというのも遅い話、いつの話という感じなのである。そして、連動して例えば、次の参議院選挙のような国政選挙も、外人の参政権を認めろに繋がる、みたいなことを言うアホがいるのだが、どっこいこちらはボロボロの日本国憲法に「国民(日本国籍を有する者)」しか認められていないわけで、外人の参政権を認める場合は、憲法を改正するしかないのである。ということで、保守派の法律家というのは、これ以上法律を覚えたくない、というのがほんとの本音、なのだけれど、そんなアホなことは口が裂けても言えないから、だけどちょっと考えなくても頓珍漢なことを建前にして、仮想敵を仕立てているとしか考えられないのである。はてさて、だから法律は建前になるのであるが、その法律という情報も捉える個人によっては、すぐさま無力化するもので、適用するかどうかなどは、個人の自由なのである。それが全面化する場面というのは、単に裁判所であるだけのことである。新たな法が施行されただけで、今までの社会生活が一変するなどとは大げさな物言いなのである。まぁ、信念持って反対している人もいるのだろうけど、傍から見ててイタイ感じになってくるわけである。
まぁ、そういうことで、信じることさ 必ず最後に愛は勝つ。 YES! WE! KAN!






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お引越し [ちょっと哲学的]

ということで、正式なSo-netブロガーとなったサイコである。そう、今までは、ネットマイルというセコいポイントサイトで「ポイントがつく」と思って頑張って毎週書いていたのだが、どーも、ポイント獲得履歴を見てもポイント溜まってる様子がなくて、というかいきなり7月末で終了するから、過去に書いたもん消されたくなかったら、移れー、なぞと告知されたので、うーん、と考えて、というのはこんてんつ会員なのだけどソネットの一応IDは、持っているはずで、なのだけど完璧記憶(記録)が無い[がく~(落胆した顔)] のでいろいろとやってみたのだけれども、結局、新ID作って、というのが最短であったようだ。いらん試行錯誤のおかげで2時間かけてしまった[がく~(落胆した顔)] というか、こんなことしている暇があったら社労士の勉強せー、なんだけれどもね[ふらふら] またぞろ、「情況への発言」全集成(1(1962~1975))なんて、吉本隆明のを本とに借りてきて読んでいるところである。いやー、だから社労士の勉強は・・・・ うーん、何とかなるだろう[ふらふら] ということで、前にも書いた栗本慎一郎と対談本相対幻論を除けば、初めて吉本のものを、今頃になって読んでるのか、と思ったら、本棚の片隅にマス・イメージ論があるではないか。うーん、しかし見事に忘却していたということである。ということで、今頃になって読んでるわけでもない。けれども、この手の本に触手がのびるということは、サイコもイタイ人かもしれない。
ということで、来月は選挙である。先回、書き忘れたようなところも含めて、ちょっと考察してみよう。

マルチチュード  〈帝国〉時代の戦争と民主主義   アントニオ・ネグリ  マイケル・ハート

今回、参院選も近いということで、ここで出てくる代表制の問題を取り上げてみよう。まず結論から言ってしまうと、代表制は機能不全に陥ってしまっていて、今やそれに対する異議申し立ては頻発しているということである。直接政治に介入するわけではないが、兎に角、今の自身の現状を訴えんがための抗議活動などの直接行動を起こす、ということである。前にも書いたのだが、貴族制(少数者による統治)、君主制(1人乃至2人による統治)そして民主制(多数による統治)という政治形態があって、民主制をもう一歩進めた絶対的民主主義(スピノザ)がマルチチュードによる全員の統治となる。しかしながら、この全員による民主政治という普遍は、実のところ民主政治が唱えられたにもかかわらず一度も実現されない理想に留まっているのである。いわんや、破綻してしまった社会主義的民主主義においても、形態としては代表制であったわけであり、その後には全体主義やファシズムといった悪しき遺産を残しているとネグリ等は言う。ネグリ等がいう「全員による統治」は、ややもすると全体主義やファシズムに親和性を持つ概念と思えてしまうのであるが、そうした論考を差し挟みながら極力言葉は選んでいるので、全体主義やファシズムとはなり得ない。しかしながら、ルソーの一般意志そのものが代表制であるとして、全員の意志に結びついているとともに切り離されている、離接的綜合のメカニズムとしている点は、仮に強度が違えば、例えば代表議員が私欲に走るか公益に走るかの傾きで何かが決定される余地は十分あるのではと思うので、的確な説明になっていないと思う。〈共〉性の対概念的なオルタナティブにあって、やっと危うく定義されはするのであるが、このスイッチが入ったり切れたりできる詭弁のような(離接的綜合自体はドゥルーズ&ガタリの)概念は、ルソーのそれこそ意志を裏切るのに容易なメカニズムであることも表出している。そして、煎じ詰めれば、代表とは誰の代表なのかということである。現在の情況から考えると、マルチチュードを代表しているとも言い切れない。有体にいってしまえば、近代的に「党」を代表しているのではないだろうか。そして、何かを決するということは、呆然とした意志を提示するに留まることではなく、マルチチュードの最大公約数の意志で(それが正しいとか悪いとかではなく)決するということではないだろうか。〈共〉性というのを、例の花田清輝のインパーソナルという、経済上の利益を度外視した機能的な人間関係、協働性に直すと日本的には分かりやすいのかもしれない。そして、選挙である。この本でも言ってることであるが、例えば最悪の2候補がいるとして、まだましな1候補に投票するしか選択の余地はなく、その候補が代表として6年、任期を勤めるというのが代表制の欠陥であるわけである。まぁ、その最低の代表が最低、〈共〉を生産しあるいはインパーソナルな活動をしてくれればいいのだが、それがなされない時には罷免という場合もありうるかもしれないけれども、最終的にはその代表に多くの裁量を任せるしかない。

まぁ、兎も角、マルチチュードによる直接的な生政治としての民主主義への野望は、やはりイバラの道ではあるのだけれど、信じることさ 必ず最後に愛は勝つ。 YES! WE! KAN!





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愛のサンカ [ちょっと哲学的]


マルチチュード(下)  〈帝国〉時代の戦争と民主主義  アントニオ・ネグリ  マイケル・ハート

さて、前回現在の〈帝国〉時代の戦争について概略したわけだが、〈帝国〉においては、戦争というほどに国家対国家といった構図ではなくなっている、というかそれは互いに壊滅的な損害に繋がるため、そもそも全面戦争は、まず出来ないわけである。しかもある一部も含めて、核による報復戦争などとなれば人類滅亡である。だから、あくまで〈内戦〉〈内紛〉として起こるため、軍事力ではなく単に有形力の行使としての警察力でもって排除乃至鎮圧されるのである。さて、そうした警察力の行使から逃れるため、まさにアンダーグラウンドでもって暗躍するのがマルチチュードであろうか? ネグリ等は案外これに関しては批判的である。例えば、イスラエルやモスクワやイラクで時々起こる自爆テロなどは、まさに生権力に対して〈生〉を賭して抗議する、あまりにも超越的な抗議行動である。生きるために死ぬ、という矛盾を孕んだ〈共〉性のための示威活動とは、不可分的に宗教という〈共〉性にあってそれこそ原理主義的な行動として隠蔽されてしまう。破壊そのものが非生産的であるばかりでなく、〈私〉と〈共〉を結ぶ線は超越的に保存されながらも、現実に〈生政治〉的な意味では死滅してしまうわけだからである。この破滅を救う手段として、ネグリ等は、世界各地で展開され/た、種々の運動を紹介している。アメリカにおけるブラックパンサー党による黒人解放闘争、イタリアにおける反グローバリゼーション運動であった「白いツナギ」運動、メキシコにおけるサパティスタ民族解放軍のネットワーク状なゲリラ闘争、そして1999年にシアトルで行われたWTO閣僚会議に対する抗議行動などなど。

 新グローバル秩序はまだ一度も三部会の集まりを開いていないし、さまざまな身分からなる全地球の住民に陳述書を提出するよう求めてもいない。だがシアトルを皮切りに、グローバル化に反対する人びとはグローバル機関のサミット会議をいわば即興のグローバル三部会へと変容させ、求められずとも自主的に陳述書を提出しているのだ。〈マルチチュード(下)P164〉

三部会とは、ルイ16世の時代、フランス革命前夜に決裂したものをアナロジーとしている。ルイ16世の求めに応じて4万を超える陳述書〈カイエ・ド・ドレアンス〉が提出されるのだが、この不満と三部会の議会形式に対する不満が爆発して、そのままフランス革命へと進展していくのである。ネグリ等は、この〈即興のグローバル三部会〉の後にマルチチュードによる革命を暗示していると言えよう。
かくして、マルチチュードの闘争は全世界的に止揚するのであろか。このまま〈帝国〉は生権力を行使しきれずに崩壊するのであろうか。最近の一例から、ギリシャの経済危機であるが、大規模なゼネストは行われたのではあるが、それだけである。銀行に火炎瓶が投げ込まれ3人が死亡などとは、先述した自爆テロよりも酷い。こうしたマルチチュードの一部過激派による行動は、〈帝国〉の生権力に補完的な作用を及ぼす。警察力の行使に大儀を与えてしまうのである。しかしながら、死者が出たから酷いとサイコは書いたのだが、死者が直接的には出ていない先述のシアトルWTO閣僚会議反対デモでも一部の参加者による破壊行動があり、そのメディアを通じての世界発信に対してはネグリ等はやや肯定的であったりする。多少の派手さは必要としているのだ。まぁ、いずれにせよ、正統的にそうした直接的非生産性行動せずに済ますとしても、未だ世界的な止揚にまでは至っていないようである。まだまだ陳述書は提出され続けなければならないということであろう。
さて、そうした陳述書の提出行動においての戦略とはいかなるものか。ネットワーク状の生権力に対しては、ネットワーク状の抗議行動ということなのだが、ネグリ等は出エジプト記を引いて「逃走せよ。だが逃げながら武器を取れ!」としている。ギリシャ、アテネでも仕事がなく、仕事を求めて国外に流出する者たちもいることであろう。これは、ポリス〈都市〉においてポリス〈警察〉の弾圧から逃れるためポリスからエクソダスする、というふうにも言える。その時、逃走する背後から敵が襲ってくるため、いかんせん武器を携えて逃げる、ということである。はて、その武器とは。間違っても火炎瓶でないことだけは確かである。例えば、先述した「白いツナギ」運動などは、トラックにサウンドマシーンを搭載して、イタリア各地で即興的な野外ライブ(レイブパーティ)を行うなどしていたのだが、そうした反グローバリゼーションデモを取り締まる警察当局との対立が目立ってくる。そこで「白いツナギ」運動のメンバーたちは、警察の排除部隊をほとんど真似た格好で、トラックを装甲車に見立てて対峙するようになるのである。どちらがポリスか、わからなくする戦略である。いわば生権力が正当的に行使する暴力をパロディー化することで、暴力排除の非正当性、非妥当性を訴えるわけである。このイロニーの表出こそがマルチチュードの武器ということである。
さて、この本の結論というのが〈真に政治的に愛の行動〉ということである。少しロマン主義的なところもあり、この結論はちょっとずっこけたのであるが、監修者である水嶋氏の解説に、「愛を政治的行動として再建しようとするネグリ&ハートの言葉は、カップルや家族といった私的領域に愛を閉じ込めたり、あるいは愛を欺瞞的に振りかざすことによって社会的敵対性をかき消そうとしたりする(それ自体が政治的な)身振りになれた今日の多くの人びとに、冷笑を持って迎えられるだけかもしれない。(P274)」と断った上で、スピノザにとっての愛が、「他者との出会いを通じて力能と喜びを増大させていくような限界なきネットワークを指示する」政治的概念であるとしている。あくまで多数多様性に開かれたマルチチュードのプロジェクトとは、愛のプロジェクト愛の実験としている。愛の酸化ではなく愛の参加である。愛の純化ではなく、愛の〈潤化〉なのである。うーん、やっぱり「白いツナギ」は、日本ではダウンタウンウギヴギバンドが元祖だよなぁ。



安田砦攻防戦 [ちょっと哲学的]

マルチチュード(上)  〈帝国〉時代の戦争と民主主義   アントニオ・ネグリ  マイケル・ハート

例の〈帝国〉の続編である。書いてあることは、〈帝国〉を引き継ぐわけだから然程変わらないのだけども、書かれた時期は、9・11からイラク戦争の間である。まず、上巻は、それこそ戦争の話からで、かなりマニアックに現在のアメリカ兵士の装備などから「身体なき戦争」ということを言っていたりする。実際、誤爆などもままあったあのピンポイント攻撃などは、バーチャルな感覚で敵を攻撃するわけで、第二次大戦のように敵同士が相手を確認しながら攻撃しあうという戦争の形態自体が変質してきているのである。そして前線の兵士は、昔も今もというように思い描きがちなのだが、通信手段の躍進的な進化によって、まさに「ネットワーク状」な連携をとりながら攻撃、防御を行うわけである。昔ならば、上官の上からの指令のみで一個中隊が、どこそこ方面へ展開されるというようなのが戦争の形態であったのが、まず情報をあらゆる角度から収集して、その情報に基づいてある一班のハイテク武装した一兵士が双方向的に指令部とコミュニケートしながら展開されるというのである。そしてピンポイント爆撃で敵の要所を壊滅しながら前進していくというのが、現代のアメリカ式戦争、〈帝国〉時代の戦争なのである。この形態全般は何もアフガンやイラクに限定されたものではなく、例えば、アメリカ国内においての対テロ、対マフィア的な警察行動にも合致するというのである。戦争行為というものが大きな警察による警察力の行使に変質しているという点も、以前の戦争とは異質である。これが、いわゆるアメリカの単独行動主義、世界の警察としての大義となっているわけである。そして、「戦争」といってはいるが、〈帝国〉にあってはそれは全て「内戦」としてしか起こりえない。この「内戦」というのもかなり広義のものであるのだけれども、実際上の内紛地域から各地で起こるテロなども「内戦」なのである。実際的にその鎮圧なり調停なりに有形力が行使される場合には、軍事力ではなく警察力である、というわけである。
さて、概ねは下巻の書評のときに総括するとして、ここで出てくるキーワードをごく簡単に書いておこう。まず、〈共〉性という概念。共通の、共同の、共有の、という意味合いを全て包含するものとして〈共〉性という風に訳されている。これは〈公〉〈私〉という概念のどちらをも採らず、どちらにも存在するということで対概念的なオルタナティブとして使われるわけである。そして、〈肉〉。身体ではなく、まぁ、現代的なアナロジーで言えば、プロティン飲んで筋肉を作るというようなのが合致すると思うのだが、マルチチュードとなっていく過程として、生成、精製されるのがこの〈肉〉である。マルチチュードの前段階というような生成過程である。そして多分これは誰も指摘しないようなことを、と思われるかもしれないのだけれど、マルクスの方法論を書いておこう。
1 歴史的傾向 - 産業労働から非物質的労働へ、フォーディズムからポストフォーディズムへ、そう近代からポストモダンへ
2 現実的抽象化
3 敵対性
4 主体性の構成
反スタであろうとなかろうと、広義のマルクス者らは、多かれ少なかれ、この方法論に基づいた思考というものが存在するのであろう。「吉本隆明の時代」のその吉本もさることながら、絓秀実が言う〈主体性〉とは、ネグリらの言う〈主体性〉と同義である。でなければ、革命的知識人の誕生という言辞は出てこないはずである。誕生=生産、そして吉本隆明の再生産、具体的、物理的なよしもとばななと、思想の再生産としての絓を見て取るとき、マクドゥーナルズとマルクス者は、現代にも脈々と再生産されている。
さて、話は69.01.18に遡る。朝5時45分、「こちらは時計台防衛司令部。ただいま、機動隊は全部、出動しました。すべての学友諸君は戦闘配置についてください。われわれのたたかいは歴史的、人民的たたかいである」。安田講堂の「時計台放送局」叫ぶ。安田砦攻防戦の幕が開いた。6時、日共(は~、今気づいたけどこれ〈ひきょう〉と読むんだ)宮顕指導部からのお達しで、あかつき行動隊も含めた民青系のゲバルト部隊は、角材を焼き、鉄パイプを捨てる儀式を行った後、赤門前をきれいに掃き清めて、全員逃走。7時、8個機動隊8500名、東大到着。医学部総合中央館と医学部図書館からバリケードの撤去を開始。機動隊は、投石・火炎瓶などによる学生の抵抗を受けつつ、医学部・工学部・法学部・経済学部等の各学部施設の封鎖を解除し、安田講堂を包囲。午後1時頃、安田講堂への本格的な封鎖解除が開始されるが、強固なバリケードと、上部階からの火炎瓶やホームベース大の敷石の投石、ガソリンや硫酸などの劇物の散布など、機動隊員の命を奪うこともいとわない攻撃を続ける全共闘学生は予想以上に抵抗。この攻防戦に篭城する全共闘学生は、諸セクト(革マル派はすでに撤退)も合わせて500名。「なるべく怪我をさせずに、生け捕りする」ことを念頭に置き封鎖解除を進めたために、全共闘学生への強硬手段をとれない機動隊は苦戦を強いられる。午後5時40分、警備本部は作業中止を命令。やむなく一旦撤収、放水の続行を残し作戦を翌日に持ち越す。
01.19 午前6時30分、機動隊の封鎖解除が再開。2日目も全共闘学生は激しく抵抗。12時30分、2階まで侵入。午後3時50分、突入した隊員が三階大講堂を制圧し、午後5時46分、屋上で最後まで暴力的手段をとり抵抗していた全共闘学生90人を検挙。午後5時 50分、「我々の闘いは勝利だった。全国の学生、市民、労働者の皆さん、我々の闘いは決して終わったのではなく、我々に代わって闘う同志の諸君が、再び解放講堂から時計台放送を行う日まで、 この放送を中止します」。東大全学学生解放戦線の今井澄のこのメッセージにより安田講堂攻防戦は幕を下ろした。東大安田講堂封鎖解除は完了し機動隊は撤収した。この2日間の闘いで、多数の負傷者、逮捕者が出るが、全共闘各派の767名の逮捕者のうち、東大生はわずか38名であった。攻防戦前、篭城することはすなわち逮捕を覚悟することであり、闘争の継続のため東大全共闘は篭城組と離脱組に分けられていた。それにしても、68.06に全学化した最盛期からの半年あまりで東大全共闘はかなり弱体化したことは否めない。それに漬け込むような形で各セクトが70年安保闘争の足がかりとして介入し、またそれにある意味頼らざるを得ない状況へと変質し、一般学生が学内への機動隊動員を許すまでに孤立化していた。最後は、いかに華々しく散るか、だけであった。これで、東大闘争は終息するのであるが、この闘争モデルは69年に全国的に各大学に拡散していくのであった。造反有利などのマオイズムやマルクス主義などの思想的背景があるわけではなく、スタイルとしての思想が表層的に模倣されていくばかりではあったのだが、東大闘争の異質性からして闘争の根拠や根底が真似されるはずもなかったわけである。
反帝国主義の時代の闘争は、学生運動に象徴されるような形で脈々と現在も市民運動へと繋がっているのであるが、反〈帝国〉時代の闘争は、いかにして展開されなければならないのか。次回、マルチチュード(下)で総括してみたい。



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